2024年10月4日(金)
ハンザとは何か
ハンザ史の個別的な研究は日々進んでいる。それにもかかわらず,「ハンザとは何か」という本質的な問いに対する一致した見解は,いまだ存在しない。これは,ハンザのもつ多面性を示すものであり,どの側面をハイライトするのかにより,ハンザの見え方は異なるであろう。実際,各時代の研究者たちは,それぞれの問題関心にしたがい,あるいはその時々の研究潮流に影響されて,ハンザをとらえてきたのである。そのため,それに応じた多様なハンザ理解があり得る。
19世紀末から20世紀初頭,D. シェーファーやE. デネルは,同時代ドイツの勢力拡張というイデオロギーを背景として,ハンザの対外発展を際立たせるハンザ史を叙述した。そこでは,ハンザの政治外交的側面が重視された(1)。彼らに続く時代に,ハンザを経済史の文脈に置こうとしたのが,F. レーリヒである(2)。さらに1964年には,A. フォン・ブラント他により,「東欧と西欧の間の仲介者」という,今日のわれわれに馴染み深いハンザ理解が明示された(3)。同年,フランスのP. ドランジェにより,現在に至るまでスタンダードとなるハンザ概説が著された(4)。ドランジェの『ハンザ』において注目されるのは,ハンザの形成・確立から危機・衰退に至る通史的叙述の間に,おもに商業にかかわる部分について,ハンザの構造的把握に多くの紙幅が割かれている点である(5)。ハンザの構造的特質をつかもうとする動きは,今世紀になって,経済学における「制度」,社会学における「ネットワーク」などの概念を援用したアプローチにつながった。個別研究はかなりの数に及び(6),直近の概説書ではそれらの成果が取り入れられている(7)。そこでの共通理解を要約すれば,広域にわたり共有されるハンザの制度(特権,商館システム,法,慣習など)とネットワーク組織によって,ハンザ商人は交易に伴う不確実性に対処し,費用を節約できた,ということである。
このように,「ハンザとは何か」をとらえようとする動きは,イデオロギー色を排しつつ,政治的側面よりも商業上の機能面に力点を置くようにして進んでいったといえる。しかし,21世紀初頭の研究潮流は,ハンザの機能上の強さを示すことに,ややとらわれ過ぎていたように感じられる。つまり,ハンザの制度やネットワークが,いかに柔軟性と強靭性に優れ,北海・バルト海交易において類まれなる性能を発揮したのか,ということの強調に,意識的であれ無意識的であれ向かっている。そこで欠けているのは,中世ヨーロッパという社会において,ハンザがいかなる役割を果たしたのかを位置づけるという視点である。上述したように,かつてフォン・ブラント他は,商品交換の仲介者としてハンザの役割を示した。そのような視点に今一度立ち返る必要があるのではないか。つまり,社会に必要とされる物資・物品を調達し,供給する役割である(8)。私はこの役割ないし機能を,「仲介者」と表現したフォン・ブラント他から一歩進めて,「ロジスティクス」という概念によってとらえたい。
ハンザのロジスティクス機能
一般的にロジスティクスとは,さまざまな経営資源を適切に配置・組織して,資源ないし製品の調達から,輸送,販売までの流れを円滑に動かすシステムを指す。ここでは単なる物流機構に加え,情報の集散や,取引相手間ないし顧客とのネットワークなども含めたサプライ・チェーンを指すこととし,ハンザが中世ヨーロッパ社会においてそのようなシステムとして役割を果たしていたと想定する。そのようにしてみると,いわゆる「ハンザ商業」とは,社会が必要とする物資・物品を産地から消費市場まで結びつける能力であり,それを実現したのが「ロジスティクスとしてのハンザ」である。
前提とすべきは,物資・物品の安定的調達・供給は,中世ヨーロッパにおいて容易に実行可能なものではなかった,ということである。広域流通実現のためには,多くの能力が高いレベルで求められたはずである。たとえば,毛皮や蜜蝋といった産品は,ロシアという文化的ボーダーラインにおいて買い付けが行われ——その際にはロシア語能力も求められる——,遠距離におよぶ高コスト・高リスクの輸送を実施しなければならない。ニシンの場合は,保存加工のための塩が調達されなくてはならず,また大量のニシン樽を保管し,各地の需要に応じて配分できるような倉庫機能を果たす拠点も必要である。そのほかに,情報調達能力,販売市場とのコネクション,共有されたルール,産地や市場についての習熟なども,あらゆる商品の取扱いにおいて求められたであろう。これを実現できたのが,ハンザなのである。
その具体相を,第41回日本ハンザ史研究会(2024年9月28日,立教大学で開催)で共通テーマとして扱われた「蜜蝋」の事例からたどってみよう。研究会では,私が問題提起をしたのちに,谷澤毅(長崎県立大学)が産地について,小野寺利行(明治大学ほか)がロシア人からの調達について,柏倉知秀(関東学院大学)が調達以降の流通経路について,それぞれ報告を行い,最後に私が近世史の視点からコメントをした。各内容の詳細については研究会ウェブサイトにレジュメが掲載されているので,そちらを参照されたい。
中世ヨーロッパにおける蜜蝋の用途は,照明,封蝋,印章,蝋細工,蝋人形,ブロンズ像の型,絵画,膏薬の素材など多様であったが,照明としての用途が主要であったことは間違いなかろう。重要なのは,それが単なる光源ではなかったことである。純粋に明かりのみを必要とするのであれば,それは基本的に松明で安価にまかなえた。そのほかの素材としては,獣脂,魚油,海獣油などがあり得た。しかし,蜜蝋(が放つ光)には,他の製品では代替できない,特別の価値があった。
キリスト教世界において,「光」は神と結びつく特別な意味をもっていた。そのため,教会や修道院でともす光は,五感に訴える神秘性をもつ必要があった。煤が多く臭気の強い,照度の低い光源素材は,それには不向きであった。蜜蝋の灯の明るさ,とくに光とともに放たれる香気こそがふさわしかったのである。さらに谷澤によれば,当時ミツバチは処女生殖を行うものと信じられており,蜜蝋はそれゆえに神聖と考えられていた。中世キリスト教社会における教会典礼の重要性(生活の中への組み込まれ度合い,必然性)を鑑みれば,蜜蝋は日常生活用品に次ぐ準必需品といえる(9)。それゆえ,品質のよい蜜蝋を安定的に産地から調達し消費地に供給するのは,きわめて重要な課題であり,その役割を担ったのが,「ハンザのロジスティクス」であった。
谷澤報告では,中東欧地域が生産力の点において優位性をもっていたことが,樹木植生や養蜂の特徴に基づいて説明された。品質の差異についてさらなる検討が望まれるが,西欧地域が中東欧の蜜蝋産地へのアクセスを求めた必然性が示された。アクセスを実現したのが,ハンザ商人である。
続く小野寺報告は,ノヴゴロド商館における取引の手順や品質・規格の統制をみることで,蜜蝋調達の実態へ迫った。商館では蜜蝋の正確な計量,品質の保証,取引単位の統一などについて定められていたが,こうした規定によって,広域流通が円滑になったと考えられる。ハンザ商館の制度が,商品の重量や品質に関する情報の非対称性(西欧の購買者や消費者は,ロシアで取引された蜜蝋が適切に計量されたのか,品質にごまかしはないかを知りえない)に対処し,度量衡の差異が生み出す種々の作業コストを軽減したのである。これは,「ハンザのロジスティクス」機能のひとつとみなせる。
柏倉報告では,蜜蝋の流通経路がノヴゴロドやリヴォニアに限られず,プロイセンのハンザ諸都市も大きなシェアを有していた可能性が示された。全体議論の際に参加者の井上光子(関西学院大学)から蜜蝋供給の安定性について質問があったが,安定供給という点で,ハンザの蜜蝋交易が複数の経路を有していた事実は重要である。自然条件の悪化や(10),調達地域の政治的情勢によって(11),主要供給源であるノヴゴロドでの調達が困難になる場合はあり得たであろう。ダンツィヒやトルンなどのプロイセン都市の後背地から蜜蝋が調達可能であったことで(12),そのような不確実性から生じる困難が和らげられたと考えられる。そして,状況に応じて調達地や経路を使い分けるには,広範な取引ネットワークや倉庫機能,情報集散能力がなくてはならない。それを有していたのがハンザである。これも,「ハンザのロジスティクス」に数えることができよう。
それでは,近世に入るとどのような変化が起こったか。この頃になると,富裕市民による住居照明設備の充実化が進行し,そこで利用されたのは高価な蜜蝋ではなく獣脂蝋燭であり,そのことをもって蜜蝋の代替化が進んだとの指摘がある(13)。しかし,蜜蝋と獣脂蝋燭は照明という点で同一の機能を果たしたとしても,市場は異なっていたという点を見落としてはならない。高価な蜜蝋は教会や宮廷を市場としており,獣脂や松明が用いられたのは一般家庭や工房,参事会,砦などである。したがって,蜜蝋と獣脂は商品として競合していなかった。
宗教改革によって総需要が減少したという考え方もあり得る。儀礼や祝祭は減少・縮小したであろうし,小澤実(立教大学)からの補足があったように,修道院の数も減ったからである。しかし,人口増大や宮廷規模の拡大などは需要増の要因となり得るので,一概に断じることはできない。
17世紀前半のハンブルクの輸出記録をみると,蜜蝋が依然として重要な交易品であったことが分かる。以下は17世紀前半にハンブルクからイベリア半島へ輸出された商品を評価額ベース(1632~34年計)で順位付けしたものである(14)。
- 繊維:114万8980マルク
- 穀物:105万2700マルク
- 蜜蝋:82万6500マルク
- 銅および銅製品:26万2800マルク
上述したように,蜜蝋の商品価値の主要部は宗教的・精神的要素で構成されていた。それが,長期にわたる需要の底堅さにつながったのではなかろうか。
ただし,蜜蝋交易においてハンザの商業システムによる調達・流通・供給,すなわち「ハンザのロジスティクス」がどこまで意義を維持し続けていたかどうかは,別問題として考えなければならない。周知のように,15世紀以降にはオランダ商人・船舶がバルト海地域に積極的に展開し,16・17世紀には支配的な地位を占めるようになった。北海・バルト海地域においてハンザの商業機能は不可欠のものではなくなったのである。玉木俊明(京都産業大学)が全体議論において表現したように,「ハンザのロジスティクスからオランダのロジスティクスへ」という転換が起こったといえよう。
しかし,部分的には「ハンザのロジスティクス」が残存した可能性はある。17・18世紀には,とりわけ政治的情勢と戦乱に影響されて,エーアソン海峡を通過するバルト海貿易が混乱することが度々あった。その際に,中世ハンザにおける基幹路であったリューベックとハンブルクを結ぶ陸上交通は,安全な代替ルートとして積極的に活用された(15)。また,18世紀から19世紀にかけて,ハンブルク,ブレーメン,リューベックの三都市は「ハンザ」の名のもとにヨーロッパ諸国やヨーロッパ以外の海外諸国と条約を結び,独自に新たな通商関係を形成していった。「ハンザのロジスティクス」の残存と変容が認められるのである。
本稿では,仮説として考え出した概念を,試行的に提示したに過ぎない。「ハンザのロジスティクス」として特徴づけた商業機構は,中世という時代を通じて同一のものではあり得ず,時とともに形成,発展,確立,変容していったはずである。上記したように,近世,近代を視野に入れることも可能である。また,取り扱われる商品の種類や,取引が行われる地域によって差異があろうことも考慮しなくてはならない。こうした諸事項を踏まえて概念を構築していく作業を,今後の課題としたい。
注
- 代表的著作をそれぞれ1点ずつのみ挙げれば,Dietrich Schäfer [1879] Die Hansestädte und König Waldemar von Dänemark Hansische Geschichte bis 1376 (Jena: Gustav Fischer); Ernst Daenell [1905/1906] Die Blütezeit der deutschen Hanse. Hansische Geschichte von der zweiten Hälfte des 14. Jahrhunderts bis zum letzten Viertel des 15. Jahrhunderts, 2 Bde. (Berlin: de Gruyter). ↩
- たとえば以下の論文集を参照。Fritz Rörig [1928] Hansische Beiträge zur Deutschen Wirtschaftsgeschichte (Breslau: Ferdinand Hirt). ↩
- Ahasver von Brandt et.al. [1963] Die Deutsche Hanse als Mittler zwischen Ost und West (Wiesbaden: Springer Fachmedien). ↩
- Phillipe Dollinger [1964] La Hanse (XIIe-XVIIe) siècles (Paris: Aubier). 邦訳としてP. ドランジェ(高橋理監訳)[2016年]『ハンザ 12-17世紀』みすず書房。 ↩
- 章タイトルを示せば,「組織」,「都市」,「船舶,航海,船主」,「経済政策」,「交易」,「文明」である。 ↩
- 具体的な個別研究については,菊池雄太[2018]「ハンザ商人の事業組織をめぐって:ネットワーク論と制度論の限界と可能性」『歴史と経済』第60巻第3号,42-49頁を参照。 ↩
- Carsten Jahnke [2014] Die Hanse (Stuttgart: Philipp Reclam); Donald J. Harreld (ed.) [2014] A Companion to the Hanseatic League (Leiden: Brill). ↩
- 資源・物資の安定的確保が喫緊の課題となっている現在を鑑みれば,この問題の歴史的考察は,時代が要請するテーマである。上述したように,多面的なハンザのどの側面にスポットライトを当てるのかは,時代ごとの社会的・学術的な関心によって変わってきた。制度論,ネットワーク論からハンザを語るようになってから四半世紀が過ぎようとしている今日,ハンザ史研究のシェーマも新たなものが設定されてもよいであろう。ドイツでは,すでにブームが去ったようであり,近年はハンザ総会や地域諸都市会議,紛争と和平,領邦君主との関係など,政治面に改めて注目する動きがみられる。「日本ハンザ史研究会」においても,ドイツないしヨーロッパ学界とは異なる独自のコンセプトが練り上げられるべきである。 ↩
- そのため,蜜蝋は高価であったにもかかわらず需要弾力性が低かったといえる。したがって,蜜蝋を「奢侈品」としてのみとらえてしまうのは,適切ではない。 ↩
- たとえば花が枯れる,ミツバチの活動が減退するなどである。 ↩
- ハンザとノヴゴロド市との関係に加え,ノヴゴロド市と産出地のルーシとの関係など,不確定要素は少なくなかったはずである。 ↩
- トルンやさらに内陸のクラクフの後背地でも蜜蝋は産出された。Reinhard Büll [1977] Das große Buch vom Wachs: Geschichte Kultur Technik (München: Georg D.W. Callway), Bd.1, 166. ↩
- Trilux Werbeabteilung [1987] Lichter und Leuchter: Entwicklungsgeschichte und Technik eines alten Kulturgutes (Arnsberg: Trilux-Lenze), 87. ↩
- Staatsarchiv Hamburg, 371-2 Admiralitätskollegium, F.3 Bd.1, 2. ↩
- このことに関しては,Yuta Kikuchi [2018] Hamburgs Ostsee- und Mitteleuropahandel 1600-1800: Warendistribution und Hinterlandnetzwerke (Wien: Böhlau) を参照。 ↩