ハンザ史用語集

ハンザに関する用語集です。随時更新していく予定です。

あ行

か行

海賊

14世紀後半から末にかけ、バルト海を中心にヴィターリエンブリューダーと呼ばれる「海賊」が猛威を振るった。正確には、彼らはスウェーデン王位を内紛の中で主張した北ドイツ諸侯、メクレンブルク公家と同盟し、その公認下で略奪活動を行う「私掠」船団である。同家とスウェーデン支配を争ったデンマークに加え、ハンザ商船も標的とされたが、一部都市からは都市出身者がむしろ私掠船団に与することもあった。最終的にはバルト海東岸に勢力を持つドイツ騎士修道会が介入し、さらにリューベックとハンブルクの連合艦隊がクラウス・シュテルテベーカーら率いる北海の残党を打ち破ることで15世紀初頭にこの私掠船団は鎮圧された。

(成川岳大)

毛皮

ハンザ商人が取引していた主な商品の一つ。毛皮は防寒に用いられただけでなく、地位や身分、富の表象でもあった。主な産地は東欧や北欧の森林で、取引の中心地はノヴゴロドをはじめとするロシア諸都市で、ここからハンザ商人の手によって西欧にもたらされた。彼らが中世後期に取引していた毛皮は二つに大別できる。一つはリスの毛皮で、取引量の大半を占めていて、品質や産地、季節、形状などで細かく区別されていた。もう一つは、クロテンをはじめとするテン、オコジョ、イタチ、ビーバーなどの毛皮で、リスの毛皮よりも高価ではあったが、取引量としては少なかった。

(小野寺利行)

コッゲ船

中世の北海・バルト海で使用されていた、一本マストで横帆の木造帆船。まっすぐ伸びた船首材と船尾材を持ち、船体は鎧張り、船底は平張りで建造され、13世紀以降は船尾舵を備えるようになった。コッゲ船の大きさはまちまちだったが、ブレーメンで発掘されたコッゲ船(1380年建造)は全長23.27メートル、全幅7.62メートル、積載量は約90トンであった。

(柏倉知秀)

ゴットランド島

バルト海に浮かぶ島(現スウェーデン領)であり、ヴァイキング時代(8-11世紀)から東西中継交易の拠点として栄えた。東方、ロシアの河川ネットワーク経由で流入した大量のイスラーム銀を含む埋められた宝は、当時の島の富、経済的な重要性を物語る。島の商人共同体は12世紀にも中継貿易に従事し、独自の銀貨も発行したが、13世紀末までにはリューベックをはじめとするドイツ人商人との競争に敗れ、あるいはドイツ人側の商人共同体に吸収される形でバルト海における商業の覇権と、政治的な自立性も失った。14世紀後半にはハンザ商人とデンマーク王、海賊勢力など諸勢力の競合の舞台となる。

(成川岳大)

琥珀

マツ類の樹脂の化石で、黄色または褐赤色をした透明ないし半透明の光沢をもつ非晶質の有機鉱物。古くから飾石、宝石として用いられた。ポメルンからプロイセンにかけてのバルト海沿岸地域が主産地。13世紀後半以降、ドイツ騎士修道会(ドイツ騎士団)が採取権と加工権を独占するようになったと考えられ、権利は契約により諸権力や各業者へ貸与された。騎士修道会は未加工の琥珀の先買い権を有し、ケーニヒスベルクを拠点とする輸出貿易を組織した。琥珀の中心的加工地はリューベックとブルッヘであった。

(菊池雄太)

さ行

中世バルト海ではリューネブルク塩が主にリューベック商人によって独占的にもたらされた。近世に入り、航海技術の向上によって航海の難所であったエーアソン海峡の輸送上の障害は克服され、それによってフランス西部から安価な天日塩、通称ベイ塩が直接バルト海沿岸地域にもたらされるようになった。ベイ塩の流入により次第にリューネブルク塩のバルト海地域での占有率は低下したが、当初リューネブルク塩の占有率は大きく減少しなかった。それは、バルト海地域の人口増加等による需要の増大と魚の塩漬けなどに多くが利用されたことによるであろう。バルト海地域が、北海・バルト海商業圏という一つの商業圏に組み込まれていった結果、バルト海地方の人々は生活上不可欠な塩などをハンザ商人だけに依存する必要がなくなった。リューネブルク塩の独占供給、経済的支配からの解放は、バルト海地域の人々がハンザへの従属から解放されることでもあった。

(斯波照雄)

スコーネの大市

13世紀から14世紀末にかけ、中世デンマーク王国東部(現スウェーデン)のスコーネ地方の西側沖合では夏場に大量のニシンが漁獲された。スコーネ地方西南にはスカノールを中心とした小都市に外国人を含む商人の租借地(フィッテ)が点在し、そこでニシンはハンザ商人のもたらす塩とあわせ塩漬けにされた後、7月末から秋にかけ開催された大市で取引されたのである。14世紀後半の最盛期には毎年200,000から300,000トンの塩漬けニシンが取引されたが、このスコーネ地方の海の幸をめぐる課税をめぐりデンマーク王とハンザ諸都市は対立を深めることとなる。

(成川岳大)

た行

タラ

ノルウェーと交易をするハンザ商人の中心的な取引商品。14世紀にノルウェー北部のハーロガラント地方、ロフォーテン諸島におけるタラ漁が盛んとなった。ノルウェーの漁師は水揚げしたタラを納屋で乾燥させ、それをベルゲン商館のハンザ商人に売却した。ノルウェーのほか、アイスランドも主要なタラ漁地域であり、とくにハンブルクの商人が進出した。

(菊池雄太)

な行

ニシン

古くから食用にされてきた寒流系海水魚。9世紀以来、塩漬けにより保存加工され樽詰めされたニシンがヨーロッパ各地の市場で消費されるようになった。これには、特定期間・期日に肉食を禁止するカトリックの普及が密接に関わっていたとされる。スカンディナヴィア半島南端のスコーネ地方は中世の一大ニシン漁場であり、ここで水揚げされた大量のニシンはリューネブルクで産する塩により塩漬けされ、ヨーロッパ各地へと出荷された。14世紀後半がスコーネのニシン漁、ニシン貿易の最盛期とされる。

(菊池雄太)

ノヴゴロド商館

北西ロシアの都市ノヴゴロドにあった、いわゆる「四大商館」の一つ。商館にあったカトリックの聖ペテロ教会にちなんでペーターホーフ(Peterhof)と呼ばれた。柵で囲まれた敷地内でハンザ商人は共同生活を営んでいた。現地のロシア人商人との取引も商館で行なわれていたが、それ以外でのロシア人の立ち入りは制限されていた。ノヴゴロド商館は12世紀末に開設され、14世紀末ごろに最盛期を迎えた。しかし15世紀になると利用者が減少していった。1478年のモスクワ大公国へのノヴゴロド併合後も商館は存続したが、1494年にはモスクワ大公イヴァン三世によって閉鎖された。

(小野寺利行)

は行

ハンザ会議

ハンザ都市の参事会使節が参加する会議でハンザの最高決定機関。ハンザによる条約の批准、外国の君主や都市との外交交渉、通商封鎖や戦争などが話し合われた。定期的に開催されることはなく、必要に応じて開催されていた。特定の開催場所は決まっていなかったが、リューベックで開かれることが多かった。参加都市は不定であり、全ハンザ都市の使節が参集することはなかった。会議終了後、審議内容や決定事項を記した議事録が作成された。

(柏倉知秀)

ハンブルク

エルベ川河口から約100km上流に位置するハンザ都市。リューベックとはオルデスロー経由の陸路、さらに14世紀末以降はシュテクニッツ運河により水路で結ばれ、バルト海地方の物流を北海方面と結ぶ、ハンザ東西交易の枢軸の役割を担った。16世紀にハンザに所属しない商人を積極的に自都市へ誘致し始め、ハンザ商業政策から距離をとるようになった。ただし1630年にはリューベック、ブレーメンとハンザ三都市同盟を結び、これは以後長い間、都市外交の際に少なからぬ役割を果たしていた。18世紀には大西洋貿易を基盤に、アムステルダムやロンドンと並ぶヨーロッパ有数の貿易港に成長した。

(菊池雄太)

ビール

中近世ハンザ都市では特産物の生産は盛んではなかったが、例外的であったのが、ビール醸造業といえるであろう。水がそのまま飲めない北ドイツ地域ではビールの需要は多く、各都市内で地域内消費のために自家醸造されていた。ブレーメン、ハンブルク、ヴィスマールではビールは有力な輸出商品であり、都市経済の成長に寄与した。ハンブルクでは16世紀以来、有力醸造業者が限定された生産施設で品質を管理し、無駄なく生産して、良質で安価なビールを輸出した。ハンザが盛期から停滞に向かう中で、リューベックでは地域内でのビール消費は市内生産品に限られ、都市経済の活性化もはかられた。ビール生産が盛んでないブラウンシュヴァイクでは輸入に際しての関税収入が都市経済に貢献した。

(斯波照雄)

ブルッヘ商館

フランドル地方の都市ブルッヘにあった、いわゆる「四大商館」の一つ。北海・バルト海商業圏の中心地として繁栄していた都市にあったこの商館は、取引量でもハンザ商人の人数でも最大規模の商館だった。ほかの三つの商館と異なり、ブルッヘ商館には特定の敷地や建物がなかった。ハンザ商人は、集会を開く時にはカルメル会修道院の食堂に集まったが、それ以外ではブルッヘ市内に分散して滞在していた。商館が独自の建物をもつようになったのは、まず1442年、次いで1478年のことだったが、それはブルッヘの経済的な繁栄が最盛期を過ぎていた時期だった。

(小野寺利行)

ベルゲン商館

いわゆる「四大商館」の一つ。13世紀前半以降、ノルウェーの都市ベルゲンのフィヨルド沿いの一区画にドイツ商人の居留地が形成され、「ドイツ人波止場」(Deutsche Brücke, Tyskebrygge)と呼ばれるようになる。居住区が史料で明確に言及されるようになるのは1410年からである。幅18〜20メートル、奥行100メートルほどの屋敷地が20ほどあった。商人のほか、さまざまな手工業者も居住していた。荒々しい気風の独特な居留地文化をもち、新参の商人に対しては暴力を伴う「歓迎」の儀式が催された。

(菊池雄太)

ま行

蜜蝋

ハンザ商人が取引していた主要商品の一つ。蜜蝋はミツバチの巣を圧搾・加熱して採取される蝋で、ヨーロッパ各地で採れたが、ハンザ商人が取引していたのは東ヨーロッパ産のもので、主にノヴゴロドをはじめとするロシア諸都市で購入されていた。蜜蝋は蝋燭や封蝋、蝋板、鋳物の原型、医薬品などに用いられたが、とくに需要が多かったのはカトリック教会で使用される蝋燭の原料としてだった。

(小野寺利行)

や行

ら行・わ行

リューネブルク

ハンブルクの東南40キロメートルほどのところに位置する都市で、中世には井戸から塩水を汲みだし、それを煮詰めて不純物の少ない良質の塩を生産していた。塩は生きていくために必要なだけでなく、人口が増加してくると安定した食料供給のために食料保存が必要となり、特に魚類の保存には塩が使われた。食料保存技術の向上は、単に地域の食料不足に対応しただけでなく、北欧の塩漬けの鰊や鱈などが商品としての輸出されるようになるなど、リューネブルクの塩はヨーロッパ商業の拡大にも貢献した。リューネブルク産の良質な塩は、主にリューベックの商人によってシュテクニッツ運河を使って独占的にバルト海地方に輸出された。複雑な製塩の権利所有者への支払いや、地下深くの井戸から塩水をくみ上げ、大量の燃料を消費しての生産には多額の費用を要したためリューネブルク塩は高価であった。その燃料として周辺の樹木が伐採された結果、森林はリューネブルガーハイデと呼ばれる荒れた草原になったといわれている。また、塩水の過度の汲み出しは地盤沈下をも引き起こした。中世の自然破壊の一例である。

(斯波照雄)

リューベック

1143年にホルシュタイン伯によってバルト海に注ぐトラーヴェ川とヴァーケニッツ川の合流地点に建設された海港都市であり、ハンザの中心都市。火災で焼失後、1159年にザクセン公ハインリヒ獅子公によって再建された。1160年にホルシュタイン地方のオルデンブルクから司教座が遷座されて司教座都市となる。1181年に神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世の支配下に入り、1225年に皇帝フリードリヒ2世によって帝国自由特権状が授与され、自由帝国都市となった。1317年までは皇帝が任命した代官や周辺領主の影響下にあったが、それ以降は20世紀初頭まで自治権を守り続けた。バルト海・北海沿岸の諸地域や北ドイツ内陸部と商業活動を展開して繁栄した。中世の主要な取引商品として、塩・毛織物・ニシンなどがあった。

(柏倉知秀)

ロンドン商館

ロンドンのテムズ河畔にあった、いわゆる「四大商館」の一つ。ドイツ語でシュタールホーフ(Stalhof)、英語でスティールヤード(Steelyard)と呼ばれた。ハンザ商人の出身地域別に三つのグループが形成されており、そこから一名の長老と二名の補佐役が選出されていた。また、ドイツから移住したロンドン市民の中からハンザ商人の利害を代表する「イングランド人の長老」が選ばれ、ハンザ商人にビショップスゲートという市門の警備や維持がまかされていたのが特色である。

(柏倉知秀)

更新履歴

  • 2020年12月24日:「塩」・「ビール」・「リューネブルク」を追加
  • 2020年4月16日:「海賊」・「ゴットランド島」・「スコーネの大市」を追加
  • 2020年2月28日:ハンザ史用語集の公開