第15回研究会報告要旨 2010年7月3日
昨年10月に長年住み慣れた九州を後にして東京へ居を移して間もなく、ハンザ史研究会の活動の中心になっておられる斯波照雄氏から、これを機会に一度報告をしないかとのお誘いを受けた。すでに後期高齢者となって頭脳の劣化を痛感している私は、中世後期を主たる対象としているこの研究会に対して自分の専門は中世初期で、これにふさわしいテーマを詳しく勉強したことがなかったので、いったんはお断りしたのであった。しかし斯波氏の好意溢れる慫慂もあり、東京に移って1回くらいは本格的な報告を聞いて頂けるのであれば、自分にとってはありがたいことであると考えるようになった。そして今まで自分である程度勉強をしてきたが、なお本格的な論文としたことのないテーマで、時代的には齟齬するものの、問題としても地理的舞台としてもハンザ史研究会での関心と適合しうるものがあると考えるに至った。それが中世初期社会経済史で「交易地」と呼ばれている都市的集落の問題である。しかも現在における世界史の研究動向にあって、これが再び重要な論点として浮かび上がっているように思われる。そう考えて報告することをお引き受けし、それは2010年7月3日に行われた。
その後しばらくして斯波氏から、報告内容をハンザ史研究会のホームページに載せられるようまとめられないかとの要請があった。そこで報告の問題提起と結論の部分をやや詳細に文章化し、他の諸章は報告当日配布した要旨を若干補正してなったのが本稿である。あまり体裁のよい作品ではないが、御容赦願いたい。
序 報告の狙い
8世紀から10世紀にかけて北海とバルト海の周辺地域で、必ずしも海岸ではなくとも海路で航行する船が到達しうる適地に港が設けられ、それを中心としてその周辺に当時の農村定住地よりは規模も大きく、また商業・交易や手工業が広く行われている点で性格も異にする集落が成立していた例が、文字史料からも考古史料からもかなりの数で知られており、19世紀以来それぞれの場所で研究対象とされてきていたことはよく知られている。これが本稿の対象となる「交易地」(註1)である。
しかし長い間中世初期には本格的な都市が形成されないという見解が学界の主流であったことも手伝って、こうした集落を都市史のうちにどのように位置づけるかは難しい問題であった。一方には中世初期におけるヨーロッパ北方の中世都市の萌芽形態であるとする見解もあり、その場合には遠隔地商業に従事する商人の主導性が想定される場合が多かったが、これら集落がおしなべて10世紀中には姿を消してしまうところから、それぞれの場所でいくつかの好条件(ことに遠隔地商業適地としての性格と王権による特別な庇護)が結びついて経過的に成立した都市的集落として、中世都市史においては必ずしも一つの段階を画さない現象とする見解も強く、現在でも一部の研究者はそうした見解を取っている。
20世紀後半に中世初期社会経済史の革新とも言うべき研究の進展が見られ、この時期にも相当な規模で商業・交易が展開し、都市も構造的に存在していたという考え方が主流となってくると、北海・バルト海周辺に限らず内陸部にも商業的性格を帯びた定住地が多数検出されることになってくる。そうなると従来は交易地と呼ばれて一つのまとまりを持っていた研究対象の範囲が、都市と考えてもよい集落の増加に伴って拡散してくるとともに、それらのうちに従来どおり「交易地」と呼んでよい定住地が一つのまとまりとして存在したかという問題が出てきて、当然にもその定義が問題となってくる(註2)。
現在のところでは、ともかくそうしたまとまりは実存すると考えるのが主流であるが、それに対する問題関心のあり方にもかなりの進展が見られるように思われる。すなわちかつてはなんと言っても中世都市成立の社会的担い手という観点から、「遠隔地商人か、地域権力か」という点に視野が集中していた感があったが、多くの交易地の創設と展開を地域権力の把持者(典型的には国王)が主導したことが今では明らかになっており、また初期中世都市一般における遠隔地商人の役割が大きく相対化されるに応じて、現在では交易地が成立してくる全般的な経済的基盤に関心の重点が移ってきたのである。そして私には、こうした問題関心の重点移動が、現在歴史学界の全体について見られる一つの強い動向と結びついているように思われる。
それはいわゆる世界システム論をきわめて古い時期から適用しうる理論と考え、なるたけ多くの重要な歴史現象を地域の論理よりは世界=遠隔地からの論理によって見ていこうとする動向である。ウォラーステインが体系化したころの世界システム論は、主として16世紀以降に商品流通が地球規模に拡延してくるという現実を踏まえ、ことにその時期以降の資本主義世界の運動を捉えようとする努力の一環であった。現在ではそれは、歴史をはるかに遡る時期にまで適用されうる理論とされ、世界史のもっとずっと古い時期と広い範囲に適用されるようになってきている。その際地球のあれこれの場所に実存した広大な版図を伴う政治勢力が帝国として捉えられ、世界システム論と世界帝国論とが表裏一体の理論として用いられているように思われる。
西洋中世史についても、かつてブローデルが12世紀以降に見られた遠隔地商業の展開に世界システム論を適用したのを嚆矢として、中世盛期・末期について次第に用いられるようになったばかりではない。もともとローマという世界帝国にも一つの根を持っていた西洋中世世界のごく初期については、地中海世界を超えて南方・西方に延びる交易関係を重視する考え方は、かなり耳目をひく議論となっていたのであったが、ごく最近では世界システム論・世界帝国論の盛行とともに、再びきわめて強く主張されるようになってきているのである。
交易地について言うならば、それはこうした定住地をもっぱら遠隔地との交易関係において捉えようとする志向として現れる。交易地が西欧中世都市のごく初期の段階に一つの型としてかなりの数で出現したのは、西欧中世世界がかつてのローマ世界帝国の版図のうちに、さらに広い地理的範囲での交易動向の一部を担って形成されてきたからであるとされるのである(註3)。これに対して個別交易地をますます大量に出土し精緻に分析されている考古史料を中心に、可能な限りの文字史料も動員して検討を進めている在地での研究では、むしろ個々の交易地を周辺地域のうちに位置づけ、そこでの社会経済的展開のうちにその交易地が成立してくる動因を求めようと傾向が強い。そしてそうした見方は、ほとんど必然的に西欧中世初期の成立を、西欧を構成するそれぞれの地域の展開の総和として見ていこうとする従来から支配的な考え方と結びついている。
本報告は、河口から約80キロ内陸でライン河畔に成立し、フランク王国北辺の典型的な交易地とされているドレスタットを取り上げ、在地での現在までの研究成果を取りまとめて、この交易地がいかにその周辺地域に根付いていたかを示すことによって、交易地一般を結ぶ世界システムとだけあまりに強く結びつける最近の動向に異を唱えることを目的としている。
I ドレスタットの立地と遺跡
中世初期(ライン河沿い)と現在(彎曲ライン河口から約80キロ Wijk bij Duurstede 周辺)におけるライン河の流路変化、19世紀以来の研究の基礎の上に20世紀後半の本格的発掘(北地区が中心)→全長約3キロの河畔定住地を跡付け、 北地区: ライン河の移動と河床拡大→杭打遺構; 商人桟橋イラストから集落拡大説(手工業のより大きな評価)へ; 計画的な敷地と町割; 長方形農家(25x8メートル)復元から1/3-1/4規模の町屋を想定; 造船台遺構; 井戸側遺構(ライン上中流域ワイン樽)、 中地区: 墓地遺構などから区分→北地区との同質性(より低位)を想定、 南地区: 複雑な地誌; ローマ期境界城砦とユトレヒト司教座『上教会』の所在; 『上教会』によるレク河岸利用税の徴収(→商工業区域存在の可能性)、地誌的多核構造(→conglomeraat)の想定?; 人口は最大3千人を想定(北地区千人については一致)
II 出土遺物の特徴 −−経済活動との関連で−−
錘・秤・試金石: 外部交易用/他交易地産品あり、高級品: 金ブローチ(スイス・ブルゴーニュ産); 象嵌太刀(フランク製); 琥珀(バルト海産)→原料・半製品の大量存在、臼石(アイフル産から在地産まで)、 陶器(ライン中流域(中心はバドルフ)産からネーデルラント産まで): 上製品から日常雑器まで多種・多量、 骨角器(在地原料): 多様な品目(ことに櫛)と原料・半製品及び廃棄物の大量存在、 紡績用錘/毛織物研磨用ガラス器具、鉄鍛冶関連品目(周辺 Veluwe の鉱石による鉄滓)、食物関連: 在地農牧業・漁業と適合
古銭史料 ドレスタット造幣貨(特有文様による造幣が著名): 640年頃の三分の一ソリドゥス貨(『委任された造幣人マデリヌス』『ドレスタットで作られた』); シャット貨=原デナリウス貨のイングランドから北海周辺での分布; カロリング期デナリウス貨(船の文様で著名)の北海=バルト海周辺からライン中流域での分布/フランス南部・イタリア北部沿海出土は少数、 ドレスタット出土貨: 埋蔵貨3件 (1)48枚=主としてカール大帝改革後とルードヴィッヒ敬虔帝のデナリウス貨 (2)25枚=ピピン短身王のデナリウス貨 (3)32枚=模造貨を含む複雑な構成; 個別発見貨100枚以上(戦後発掘54枚)→圧倒的に改革後カール貨とルードヴィッヒ貨
III 社会経済組織と国制
住民組織(ことに商人ギルド)解明への手がかり極小、統治形態は比較的明確=フランク王国北辺の最大拠点王領として procurator rei respublici の駐在; 造幣所と流通税徴収所; 外交拠点(ボニファティウスやアルクイヌスの接遇)、 ユトレヒト司教座教会(630年代創建)に土地と権利の十分の一及び流通税の一部と免除特権を譲与→『上教会』による領民(土地+保護)の公権支配; 教会領に来る外部商人も特権に参与; バルト海交易地(ハイタブ/ビルカ)への布教・上級教会、在地研究者による在地領主層の役割強調(直接の史料は僅少)
IV 交易地の消滅 −−都市機能の地域的継受−−
830年代造幣は低調に; 9世紀中葉北地区拡大停止; 外部史料での言及減少; 10世紀に『かつての偉大なドレスタット』言及; 破局的事件の言及欠如、 交易地の一般的消滅を巡る議論→ドレスタットについては最近研究が進展 (1)Wijk bij Duurstede 初期の検討進行: dorestadus 地名は vicus を経て Wijk bij Duurstede に変わる; 後者に目立った都市機能なし; 13世紀第一次囲壁建設は『ヴェイクの卵』=北地区南側に接した細長い区域; 縮小後も在地的定住連続の可能性大、 (2)Deventer(北東約50キロ)を国際交易機能継受地とした議論が一般的、代わって最近南西約15キロ Waal 河沿い Tiel の役割浮彫(中世初期に遡る考古調査)→ドレスタットと似た地誌的構造=王権の城砦と修道院を両端に持つ川沿い(河床移動)の細長い定住地(9世紀に遡及); 輸入陶器多数で一部はドレスタット出土品と型式的に一致; 統治構造も酷似、国際交易機能の地域的継受
結論 交易地ドレスタットの国際的性格の相対化
北海=バルト海の周辺に点在する交易地の典型として、ドレスタットの遺構と遺物とはまことに国際交易港に相応しい姿を呈していた。中世初期ヨーロッパで交通の動脈となったライン河の河口地帯で、当時の小規模な船舶に相応しい立地を選んで川沿いに展開したその細長い集落は、ある時期までは商人屋敷地のみの集合と解釈されていた街区を川岸に広げ、バルト海沿岸から運ばれてきた琥珀を大量に出土するなど、遠隔地商人たちの根拠地として国際的性格を主たる属性として理解したくなるような姿を示していたことは確かである。1960年代からさらに本格化した発掘の中でも、そうしたイメージは相当な程度に維持されており、それを象徴するのがライン河の移動に伴って旧河床に打ち込まれた杭の列を、商人たち独自の板敷港湾施設としていた理解であった。それに基づいてこの港に当時のフリーセン商業特有な小型船ハルクを並べたイラストは人口に膾炙して、一般読者の夢をかき立てずにはおかなかったのである。
これらの杭の列は、旧河床での土地造成の手段であると考え直された現在では、新たなイラストのないままにこうした古いイメージが一人歩きしてしまっている感がある。けれどもドレスタットを主として遠隔地交易港と理解してその国際的性格を過度に強調するのではなく、交易地ドレスタットの地域的性格を前面に押し出す途は、実はずっと以前から探られてきていたのであった。
まず指摘しておきたいのは、これだけの規模の遺跡からの遺構と遺物とが、それにしては比較的地味なことである。ことに奢侈品とも言えそうな高級品として説明したブローチも指輪も剣も、それぞれおそらく当時ある程度の地位にある貴族であれば持ちうるほどの品であり、しかもそれらがすべてフランク王国内部の製品だと考えられているのである。ドレスタットからの高級な遺物のうちに地中海圏の作品である可能性を持つものはほとんどなく、ましてやロシヤの平原を通ってペルシャやビザンツから運ばれてきたものが語られる例はない。高級品の相当な部分を占める琥珀はバルト海沿岸のもので、それらと原料の少なくとも一部がフリースラント・ネーデルラント産であったはずの骨角器のうちの上製品との間には、越えがたい格差があるとは見えない。こうした品物のうちにはライン中流域からの陶器の上製品を入れてよいであろうが、同じ産地からの作品なら大量の実用品も出土しているのである。そしてこれらは、ドレスタット自体を含むライン下流域製品の大量の遺物と連続した存在となっている。遺構としては話題を呼ぶワイン樽の井戸側も、ライン中上流域からのワイン輸入の確固たる証拠として役立つことは確かであるが、これとてライン下流域の大木からくりぬかれて製作されたいくつかの井戸側と隔絶した存在ではない。こうして交易地ドレスタットの豊富な遺構や遺物から受けるのは、フランク王国(ことにライン河流域)及びそれと連なった北海=バルト海周辺で広く生産され流通していた日常品をも含む多様な財貨の集積であるという印象であって、もちろん同時代にごく普通の遺跡からの少数ずつの出土品よりは遠隔から到来し高級であった度合いは高いのだとしても、そうした地理的基礎から供給されるものであったことを確認できるであろう。
ドレスタットの考古学的調査からのこうした印象は、要するにそれが7世紀から9世紀にかけてのフランク世界に外部から到達した交易の流れが生み出した交易地だったのではなく、むしろフランク王国経済の内部から生み出されつつ北海=バルト海世界に向けられた出入り口となったということであり、それに伴ってここで結論の第2として強調したい強い手工業的性格が出てくる。残念ながら個別の工房が再現できるほどの遺構はないが、最も印象的なのが大量の原料品と半製品とを出土している琥珀であり、それと並んでより在地性の強い骨角器であろう。これらが物理的に伝来しやすい財貨であったところから、それらの与える量的印象はやや誇張されているかもしれないが、遠隔地交易の素材としてもまた在地での日常生活用品の供給のためにも、ドレスタットでこれらの部門に多くの専業手工業者が活動していたことは確実であり、これだけの手工業関連遺物を移動手工業者の来訪によってだけ説明することは困難である。轆轤加工による上製の陶器がライン中流域から運ばれてきていたのだとしても、在地にもそれほど劣らない洗練度を示す陶器生産が広がっていたことも確実であり、さらに若干の道具や鉄滓のような廃棄物が検出されるのみだとしても、周辺地域からの原料供給が確実な鉄鍛冶のような基礎的な業種も存在していた。そして当時フリーセン地方の特産であったと思われる毛織物についても、紡錘や縦糸用錘という生産用具の目立った出土からして、在地用に限られない輸出用生産の存在が確実視されているのである。当然毛織物生産の一部は自家消費用の営為として農家においても行われていたであろうが、ライン河に近い区域には専業の手工業者が居住していたに違いないのである。
ドレスタットについての考古史料の検討は、それが深く周辺地域のうちに根を下ろしていたことを明らかにしてきたのであって、これを第3に重要な点とできよう。他の交易地については、そこの製品が周辺農村から発掘されたり、そこで用いられている原料品の出所がやはり周辺定住地に特定できたりするような例が時には見られるが、確かにドレスタットについてはそうした例は挙げられていない。しかし周辺のヴェリュヴェ地方が鉄鉱石の生産地であり、また羊毛がフリースラントの特産品であることはしばしば指摘されてきた。骨角器の原料である鹿類の角や建築や造船のための木材を周辺に仰いでいたことも、当然の事情として描かれている。そしてこの点は研究史的にも常に意識されてきた点であり、オランダの考古学者たちの最大の業績として、交易地研究を遠隔地交易から地域の視点に移し変えたことがしばしば指摘されてきたが、ファン=エスの1990年の総括的な論文は地域との関連の描写にとくに力を注いでおり、「ドレスタットに焦点を合わせる」"Dorestad Centered" とされるこの論文の題目(註4)を、「(地域)中心としてのドレスタット」と読んでしまいたくなるほどである。そもそも1960年以降でのドレスタット研究が、彎曲ライン地方地域プロジェクトの一環をなしていたのだが、その後のオランダ考古学はドレスタットの南に延びる地域を対象に定住と景観を検討するプロジェクトを手がけてきており、交易地をも地域のうちに位置づけることを絶えず心がけているように思える。
第4に重要な点として指摘しておきたいのは、交易地ドレスタットの社会経済組織が当時のフランク王国の国制と異質な世界を構成していたわけではないことである。特に外交や国際交易における王権の拠点として、ドレスタットは王領の一部を成していたということができ、それに相応しい高級役人が駐在していた。同時にフランク国制の一部を成しているとも言える教会組織も、ユトレヒト司教座教会が『上教会』と呼ばれる有力な教会を置くことによって、流通税徴収などを通じて在地の統治に深く関わっていた。ユトレヒト教会の地位は同時に有力教会領主ともいうべきもので、史料的な制約からその領主的側面を十分に描写することはできないが、有力領主による支配が同時に国家組織の一部を成しているという中世国家の性格は、ここでも当然見て取れるのである。これに対してより下位の領主たちの広汎な存在は、ドレスタットの研究者たちにとっては自明の前提とされているが、史料に具体的に姿を現わすことがなくて捉えがたい。これに商人や手工業者の組織にもまったく史料がないという事情を付け加えるなら、ドレスタットの社会経済組織についてのわれわれの知識はいかにも不十分であるが、フランク王国でも特に王権の強い場所での統治の典型的なあり方を示しているとしてよいであろう。
第5に、9世紀末から10世紀初頭でのドレスタットの消滅がけっして突発的な事件だったのではなく、縮小されはしたが在地での連続的な定住と交易地としての機能のごく近辺のティールへの継受が確信できるようになった今では、いわば地域における都市的諸機能の地理的な配置替えだったと考えられることである。それが生じるには、ライン河の港としての利便の減少、周辺の政治勢力配置の変化など、おそらくいくつもの水準の要因が働いていたであろうが、交易地ドレスタットの消滅がこの地域における都市の断絶をけっして意味していなかった点を銘記すべきであろう。
このように見てくると、かつて中世都市の起源を西欧外部から到達したという遠隔地商業を原動力として説明しようとしたアンリ・ピレンヌの学説が、その後の詳細な地域研究によって批判し尽くされたのと同様に、中世初期交易地があたかもペルシャや東ローマからロシヤ平原とバルト海を通って到来した遠隔地交易−−その存在自体は疑いようもないが−−から主として説明しようとする試みも、交易地を地域のうちに位置づけることによって大きく相対化されねばならないのは明らかであろう。ドレスタットはそのためのきわめてよい材料を、提供してくれているのである。
註
- 第二次大戦までのヨーロッパ学界では、ユトラント半島付根東岸の著名なハイタブ(ヘーゼビュー)を主たる舞台として研究の中心となっていたのがドイツ学界であったために、Handelsplatz というドイツ語の術語が最も強く意識されていた。そこでかつての日本学界でも「商業地」と呼ばれる場合が多かったが、戦後はヨーロッパ各国がそれぞれの領土内部で対象となりうる場所を研究するようになってきて、おのずと Trading Place という英語の術語がより広く研究者の念頭に置かれるようになり、日本語でも「交易地」という語法が一般的になっている。
- Hill, D., End Piece: Definitions and Superficial Analysis, in Hill, D. / Cowie, R. (ed.), Wics. The Early Medieval Trading Centres of Northern Europe, Sheffield 2002, pp. 75-84 がこの問題を論じた上で、続く pp. 85-110 で、イングランドと大陸についての交易地の一覧を提示している。なおこの書物ではこの報告での「交易地」に当たる語として Wics を用いており、それを書名としている。これはしばしば行われる仕方であるが、確かに vicus, wic は中世初期に通例の農村定住地とは異なった特徴を持つ場所を指して用いられてはいたが、必ずしも交易の中心地を示していたわけではない。いずれにせよ「交易地」という用語と定義の問題はきわめて複雑微妙であるので、本報告ではこれを正面から取り上げることはせずに、広く学界で典型的な「交易地」と考えられているドレスタットに絞って論ずることにした。
- 最近におけるわが国学界での西洋中世史研究を代表する講座『ヨーロッパの中世』(岩波書店)でも、交易地がいくつかの巻で取り上げられているが、こうした考え方を最も強く押し出しているのが、第1巻:佐藤彰一『中世世界とは何か』(2008年)である。この講座で中世初期についてまとまった叙述のある唯一の巻であるが、ここではヨーロッパを含んで世界システムがきわめて古くから機能していたと考えられており、そこで威信財交易と商業交易との交代を含んで、絶えず中心・周縁関係=地域間システムが機能していたと考えられている(同書、5頁)。ヨーロッパ中世の起点は西ローマ帝国の消滅による地中海世界の周縁への転落によるが、その中で交易地成立の要因は、アッバス朝帝国による巨大都市バグダッドとサマラの建設が作り出した莫大な需要の、東西交易を通じての波及に求められている(同書、14-16頁)。
- van Es, W. A., Dorestad centered, in Besteman, J. C. / Bos, J. M. / Heidinga, H. A. (ed.), Medieval archaeology in the Netherlands. Studies presented to H. H. van Regteren Altena, Assen / Maastricht 1990, pp. 151-182.