2009-06-27

ハンブルクにおける西・南欧外来商人の商業活動とバルト海地方 —17世紀前半のイベリア半島貿易との関係から—

第13回研究会報告要旨 2009年6月27日

菊池雄太(早稲田大学大学院・博士後期課程)

本報告は,近世都市における外来商人の商業活動と,それが都市の貿易構造へ与えた影響について,ハンブルクを例にとり問おうとするものである。ヨーロッパ近世商業都市の多くが,宗派や人種の異なる外来商人を受容することによって経済発展を果たしたことはよく知られている。このような商業都市の発展に関して研究上多かれ少なかれ共通している見解は,外来商人の移入により新たな資本や取引ネットワーク,商業技術などがもちこまれたことで,旧来の伝統的な商業の枠組みが打破され,新たな発展可能性が開かれた,という点である。ハンブルクの場合,16世紀中葉から17世紀にかけて西・南欧出身商人が移入し,エルベ川以西との貿易が活発化する一方で,中世以来ハンザのもとで形成されていた商業関係は放棄され,バルト海地方の重要性が低下したことが強調されている。

それに対し本報告では,ハンブルクの新興貿易部門である対西・南ヨーロッパ商業は伝統的貿易部門であるバルト海商業を巻き込みつつ発達したという仮説にたち,例として対イベリア貿易における外来商人の商品取引と,バルト海地方との商業関係の関連性を問うことを試みた。

ハンブルク国立文書館に所蔵される関税台帳からイベリア貿易における輸出入商品構造をまとめてみると,輸出品においては繊維品に続き,穀物や蜜蝋,銅といった,いずれも当時のスペイン・ポルトガルにおいて大きな需要のあった商品が,評価額において主要輸入商品に比肩しうる規模で取引されたことが明らかになった。さらに総取引額の大きいネーデルラント商人やセファルディム商人のなかには,銅や火薬,索具,木材,タールなどの輸出を取引活動の中心としていたものが検出された。

これらの輸出品の主要な供給元が,バルト海地方であった。『エーアソン海峡通行税台帳』によると,バルト海地方を西航するハンブルク船舶数はたしかに少ない。しかし,ハンブルクの港湾記録から,その数を大きく上回る船舶がバルト海地方から入港し,また通行税台帳に記録されたハンブルク船舶が積載していない商品が輸入されていたことが判明した。ここから,多数の外来船舶がバルト海地方からハンブルクに入港していたことが予想される。ハンブルクとデンマークの対立やスペインとネーデルラントの抗争などの政治的背景からも,それは説明可能である。すなわち前者においてはエーアソン海峡通行税がハンブルクに対して引き上げられたことが,バルト海地方におけるハンブルク船舶の減少の要因となり,また後者においてはオランダ船舶がスペイン海軍による拿捕を避けるために中立港たるハンブルクを中継地として利用することで東西貿易を営んだ。

また,ハンブルクは海路のほかリューベックとつながる陸路によって,バルト海地方とのチャンネルを有していた。とりわけストックホルムからリューベックに積み出されたスウェーデン銅の西方輸送においてこの陸路は大きな役割を果たしており,海路でなされるよりもはるかに大規模な取引がおこなわれていたものと考えられる。

以上から,ハンブルク・バルト海貿易はエルベ川以西との貿易の発達に密接に結びつき,連関していたことが結論づけられる。