2008-12-13

14−15世紀におけるフランドル四者会議のドイツ・ハンザ問題

第12回研究会報告要旨 2008年12月13日

畑奈保美(東北大学専門研究員)

北ヨーロッパの経済中心地として繁栄したフランドル、特に国際商業都市ブリュッヘ(ブリュージュ)にはヨーロッパ中から商人が集まったが、その中で最も古く、かつ緊密な関係で結ばれていたのは、ドイツ・ハンザの商人たちだった。彼らの組織「在ブリュッヘ・ドイツ商人団」はハンザ四大在外商館の一つをなしている。こうしたフランドルとハンザの交渉については、既に20世紀半ばまでにハンザ側の史料からは詳細な研究がまとめられているものの、それ以降、フランドル側からの再検討の可能性が生じてきた。フランドルにおいてハンザとの交渉を担当したのは、当初は大都市(ヘント、ブリュッヘ、イープルなど)の合議体、14世紀末以降はそこにブリュッヘ周辺の自治的農村地区(シャテルニー)ブルフセ・フレイエを加えた「四者会議」(Vier Leden)であったが、こうした代表制活動の研究が、1384年以来フランドルを支配下に収めたブルゴーニュ家の統治期に関し、大きく進展したからである。そこで、この代表制活動の史料として諸都市・シャテルニーの会計簿の記述から編纂された『活動録』(Handelingen)を用い、フランドル四者会議がドイツ・ハンザにどのように対応していたか、ということを検討する。

『活動録』(ここではブルゴーニュ家4代の君主の統治期1384-1477年を対象とする)のなかでハンザに関係した活動の割合を確かめると約14%となった。もちろん時期的に変動があり、ハンザがフランドルに対して経済封鎖令を発し、フランドル外に商館を移してしまった時期(1388-92、1451-57年)に多くの活動が行われた。こうしたハンザとの関係の危機に際し、四者会議は関係を修復するため最大限の努力を費やしたからである。

だがそうした非常時の他にも、ほとんど常に四者会議にはハンザからの苦情や要請が持ち込まれていた。ハンザ商人にとって、ブルゴーニュ家の君主が打ち出した新貨幣の発行、地金禁輸、課税、穀物禁輸などの経済政策や君主裁判権の強化は彼らの特権を損なうものであった。またそれらの政策を実施する君主役人たちも槍玉に挙げられた。当時フランドル近海で横行していた私掠や、フランドル各都市の裁判や課税をめぐっても、ハンザは様々な紛争を起こしていた。このため四者会議は、ハンザと彼らに被害を与えた相手方(自分たちの君主、イングランドやスコットランドなどの外部勢力、フランドル各都市の当局など)との間に入り、問題解決に努めた。その際、四者の配下にあるフランドルの諸都市に対しては、四者会議の介入がかなり効果的だったが、君主や外部勢力との交渉においては、四者会議に決定的な強制力があったわけではないので、必ずしも常にハンザを満足させる結果を導いたとはいえない。そのようなこともあって、ハンザ自体もフランドル人その他への私掠や報復行為に走ったが、そうしたハンザに対する苦情や要請も四者会議が扱わねばならなかった。

このようにフランドルとハンザの間には常に多くの問題が生じていた。それは時に深刻な対立を引き起こしたにせよ、裏を返せば両者の接触の緊密さを物語ってもいる。1460年代以降四者会議で取り扱われるハンザ関係の問題は激減するが、それはむしろフランドルにおけるハンザ商人の活動低下と対応するのである。そして、四者会議と在ブリュッヘ商館ないしハンザ会議との間で、問題を提起し対処する仕組みが作られていたことは注目に値するのではないだろうか。