2006-12-02

中世ノヴゴロドのハンザ商館における取引活動

第8回研究会報告要旨 2006年12月2日

小野寺利行(明治大学)

バルト海北海交易を営むハンザは重要な取引拠点に商館を置いていた。その一つがロシアのノヴゴロドで、ここでハンザ商人は外界と隔離された商館で共同生活をしながら、取引を行なっていた。13世紀から17世紀まで七つの版がある商館規約「スクラ」(Schra, Skra)のうち15世紀までの五つの版を使い、ノヴゴロドの商館における取引の方法と、その法整備の過程を明らかにするとともに、法規制の必要性についても検討した。

まず取引の手順は14世紀後半になって定められた。ハンザ商人がロシア人商人と契約の交渉を行なう場合、第三者の立ち会いが必要とされ、立会人の同意がなければ三日間は取引を行なうことができなかった。その後、商館で商品の受け渡しが行なわれて取引が終了する。このような規定は公正な取引を行なうためのものだったが、取引終了後の損害賠償義務を負っていたのはロシア人だけで、ハンザ商人には賠償義務はなく、ハンザ側に有利な条件が付されていた。こうした手順でハンザ商人は商館滞在中に取引をしていたが、商館での滞在期間が定められ、長期にわたる滞在や一年間に何度も渡航することは許されず、滞在は短期間に限られていた。さらに、滞在中には商品を搬入・搬出することもできず、商人の抜け駆けを防ごうとしていた。

取引を行なう上で重要になるのは商品の検査で、13世紀末のスクラにも規定があるが、14世紀後半以降に多くみられるようになった。ハンザ・ノヴゴロド双方で商品の品質や量目が問題となり、しばしば争いが生じていたため、取引の前には商品の検査が義務づけられていた。14世紀になり検査人が登場するが、同世紀後半には商品ごとに細分化され、商品の増加に対応しようとしている。さらに、検査人には公正な検査義務が課され、検査の手順も明文化されていった。しかし、このような試みにもかかわらず、商品の品質や検査についての両者の対立は解消されず、この問題は15世紀にも続いていくことになる。

この他にもさまざまな規制が存在した。取引は商館の中で行なわれ、ロシア人宅への商品の搬入が禁止されていた。しかも、ロシア人は夜間の商館への立入や商館内の教会への立入も禁止され、ハンザ商人は彼らと自由に接触することはできなかった。また、取引の機会均等をハンザ商人に保証するため、仲買人は15世紀半ばまで認められず、その後も仲買人自身の取引は禁止され、ハンザ商人の年間取引高も制限されていた。こうして、14世紀を通じて増加の一途をたどった商人から取引の機会が奪われないようにしていた。ロシア人との接触の制限については、ロシア人との共同経営や信用取引の禁止といった規定が13世紀末から存在し、14世紀後半以降も度々登場している。信用取引の場合、支払いをめぐるロシア人とのいさかいの防止だけでなく、ハンザ商人が没落しないようにする目的もあった。ハンザ商人間での平等を意図したものではあったが、一方で自由な取引活動が阻害されたという側面もあった。

以上のようなスクラの規定は13世紀末からすでに存在していたが、14世紀後半以降に急増していった。このようにして、ロシア人商人との争いを防ぎ、ハンザ商人の間での平等・機会均等を図る目的で、取引に関する法整備が行なわれていった。スクラによる規制が進んだ背景には、14世紀に商館での取引が増加し、商人の数も増えていったという状況があった。そのため、不文律の慣習のままでは取引のやり方が守られなくなり、慣習を明文化する必要が生じたのではないか。さらに、商人個人の自由な取引活動と商館やハンザによる管理交易との利害の対立のあらわれであったとも考えられるだろう。