2005-06-25

中世ハンザ都市における領域政策

第5回研究会報告要旨 2005年6月25日

斯波照雄(中央大学商学部)

ハンザ都市ブラウンシュヴァイク、ハンブルク、リューベック、シュトラールズント4都市の都市、市民、教会等による土地取得について、その動向を追い、それが主体的、計画的なのか、総合して領域政策と言えるのかについて検討を試みた。

各都市において、少なくとも当初は、市の安全確保のため市の周辺の重要拠点地域の土地が取得された。それは、リューベックを除く領邦都市にとって、市が自立するための一つの条件であったともいえよう。その後、多くの土地やその権利が市、市民や教会等によって購入されるが、それは、封建権力者側の財貨不足を原因とする市や市民に対する無心による消極的な取得であり、市や市民の側には直接的な農業経営の意図はほとんどなかったと思われる。すなわち、地域の政治的環境が悪化すると封建権力者は軍事費の必要から土地を担保または譲渡し、都市はそれに対応して封建権力者を経済的に支援,友好を維持し、商業路や都市の安全を確保しようとしたのである。都市によって相違はあるが、おおよそ14世紀後半から15世紀半ばに、重要な通商交通路の安全確保、特に運河の建設やその安全維持のために、一定地域の土地がおそらくは封建権力者側の財貨不足に乗じて主体的、計画的に求められたと思われるのである。

ここで取り上げた4都市を比較すると、エルベ河奥地に広い後背地を有するハンブルクでは当初、周辺地の取得は決して積極的なものではなかった。それはリューベックも同様で、両都市とも運河の建設や商業路保護の必要性から積極的な土地取得に転換したと思われるのである。特にリューベックでは市もメルンを中心にベルゲドルフ・メルン家の所領全体を取得しているし、有力市民の中には農地の一円的所有の事例もある。ブラウンシュヴァイクでも、当初はハンブルク、リューベックと同様であったが、市民抗争以降は、財政悪化が顕著となる中で、不要な土地を処分し限られた資金の範囲で地域の防衛拠点とその周辺地域を主体的、計画的に取得した。しかしブラウンシュヴァイク、ハンブルク、リューベックにおける土地取得は主体的、計画的であっても、周辺地域において市や市民が農地経営を目指したとは思えなかった。それは農業経営により農産物、特に穀物が商品としての価値を高めるにつれて商品としての穀物を確実に取得しようとしたとも考えられるが、あくまで商業路の安全確保を主目的としていたと思われる。ハンザ商業自体が停滞傾向を示す中で土地を取得して運河を建設し、商業路の安全を維持することは商業振興策の一つであったであろう。危険さえ減少すれば商業の方がはるかに有利であったからである。

これに対し、シュトラールズントでは、すでに15世紀の前半において、有力市民や修道院が一定地域に対する一円的土地所有を志向したと思われる事例が複数あり、そうした土地所有と関連する地域内での商業独占の事例が見られた。前記の3都市とシュトラールズントの違いは、前者のように遠隔地商業や広い後背地における商業になお「投資」機会が豊富である都市では商業への「投資」に比べ収益率の低い土地への「投資」は副次的なものにすぎなかったのに対しシュトラールズントの場合、商業に都市の経済の多くを依存しながら遠隔地商業の展開に望ましい環境になく、商業への「投資」機会が減少する中で、過飽和となった「商業資本」が周辺地へ「投資」されたということではなかったか。後背地が小さい都市が市の経済的繁栄を維持するためには地代等の取得による安定した収入を確保するとともに、確実かつ効率的な収益の確保を目指した商業独占をより強力に進めざるをえなかったのではなかったかと考えられるのである。こうした商業独占はヴェント都市で14世紀後半以降強化される都市圏内の穀物、家畜売買等に関する規制強化との関連で考えるべきかもしれない。また、シュトラールズントの周辺地域への対応は、南ドイツやスイスにおける都市周辺農村地域を一円的に支配する領域政策と類似するとも見えるが、農地経営の意図は少なく、商業振興に力点の置かれたものであったように思われる。このように見るならばハンザ都市における都市、市民や教会等による土地取得はあくまでも商業を強く意識したものであり、農村支配を目指したものではなかったと思われる。そしてそれは、停滞傾向を示す中での商業振興策であり、その結果として、各都市あるいは各品目や個別地域間商業において差はあるものの、16世紀に至るまで一定の水準を維持することを可能にしたのではなかったか。周辺村落の土地所有が農村支配へと進展しなかったのは、ハンザ商業が健在であり、なお、ハンザ都市の市民や商人が、危険はともなうものの、土地よりも多くの利益を得られるハンザ商業への「投資」機会をもち、さらに、その発展を信じていたからではなかったか。

以上のように、ハンザ都市における都市、市民や教会等の土地取得は14-15世紀頃を境に主体的、計画的になった点、それらが当初より相互補完的に協力しておこなわれたかは明らかでないが、有力市民が都市の中枢を占め、教会の役員であり、少なくとも結果的にはそうなった点を考え併せるならば、こうした都市側の周辺農村における土地取得は領域政策の一つと言えると考えられるのではなかろうか。