2004-06-26

中・近世ストックホルムの交易形態

第4回研究会報告要旨 2004年6月26日

根本聡(旭川工業高専)

スウェーデンの現在の首都ストックホルムは、メーラレン湖からバルト海へ抜ける出入口に支配権力が建設した海峡都市である。その建設は、陸地隆起による同海峡の狭隘化のため、大型コッゲ船での湖内遡航に支障をきたした13世紀中葉のことであった。このとき以来、メーラレン湖は施錠がかけられたも同然となり、内海となった。このことは、国の宗教・政治・経済・文化の心臓部であったメーラレン湖地方を異邦人に対して遮断しながらも、この海峡都市ストックホルムを国の内外から集まる物産の積み換え地にし、ここでのみ客人との取引がなされるステープルとして機能するように誘導することを意味した。したがって、当都市は成立当初より対外交易を集中化させうる立場にあったわけである。

メーラレン湖周辺一帯の地方(ここでは湖水地方と呼ぶ)は、北緯60度周辺以北の地域としては異例の穀倉地帯であった。くわえて、同湖は、その北にひろがる「ベリィスラーゲン」と呼ばれる中央鉱山地帯が産する金属、特に鉄の搬出路ともなっていた。ゆえに、古くから外界との接触が盛んであったわけである。特に注目すべきなのは、穀物生産に不向きな当都市より北東方面のボスニア・フィンランド海域の民衆とのあいだの交易関係である。彼らは魚類・海獣油・毛皮・皮革類等の物産を携えて、不足する穀物や金属を求めて海峡通過の上で、湖水地方の民衆と交易を行っていた。ストックホルムの成立は、この交通への障害になった。というのは、メーラレン湖内へ進入する際に、当都市を通過せざるをえなくなったからである。これが「ボスニア海域強制」といわれる商業禁令をもたらした状況であった。この禁令は、当都市への物流の一元化を目指す支配当局による商業全般の一局統制策として、今後の商業政策の基本線となった。ところが、民衆の用いる小舟による通航であれば、海峡通航自体が不可能になるわけではない。たしかにハンザ商人等のバルト海南岸から渡来する客人には、スウェーデン本土とボスニア・フィンランド海域の双方からの物流が集約される「ステープル市場」での取引は有利であった。しかし、バルト海北岸からみるならば、通航税徴収による通航許可か、あるいは当都市限定の商取引奨励策の方が、通航遮断策よりも支配当局と民衆の双方に利する公算が高い。当都市への商業強制の強化は、他の諸港に販路を求めて、当都市以外、特にバルト海南岸への「農民航行」を促す結果となりかねなかった。事実、中世を通じて、この商業禁令は徹底せず、このことは支配当局が民衆の活動を顧慮せざるをえない交易環境を示すものである。

スウェーデンが北欧連合(カルマル同盟)を離脱し、新国家を建設する16世紀になると、グスターヴ・ヴァーサ王は従来通り民衆交易の根絶を目指し、当都市への物流の集中化を図って成功を収めた。と同時に浮上した重要課題は、当都市の吸引力を高めることよりも、王権によって全王国を扶養すること、そのために内国交易へ直接干渉すること、になった。しかし、当都市は北方広域分配センターとしての枢要な機能をやめなかったのである。その端的な理由は、鉱山業の新展開にあった。当都市での独占的な鉄輸出が富を蓄積し、鉄生産それ自体が、17世紀における軍事国家化に必要な資源の自給を可能にしたからである。ここには、高品質の鉄資源や豊饒な森林・水資源といった有利な条件の他に、ベリィスラーゲン−メーラレン湖−ストックホルム−バルト海という抜群の交通連関があった。ゆえに、当都市繁栄の重要な要因とは、産地からの鉄輸送の上で要衝に位置したその立地条件であった。さらに、オスムンド鉄から棒鉄への転換という技術革新もまた、17世紀中葉までに生じるが、このことが当都市の首都化に決定的なインパクトを与え、大国化の条件ともなるのである。